ページタイトル

本殿三間社流造り
屋根銅板葺
昭和33年8月1日 県重要文化財指定

寛永18年(西暦1641年)、平藩領主である内藤政長(ないとうまさなが)の子政晴(まさはる)により建てられた本殿の構造形式は三間社流造り(さんげんしゃながれづくり)と言い、正面中央一間には金金具を打ち付けた板唐戸があり、胴部前面、欄間、脇障子には、後補(元文5年、西暦1739年)になる翁姥(おきなうば)、四天王、花、瑞獣(ずいじゅう)などの彫刻がはめ込まれ、向拝(こうはい)、各円柱、大瓶束(たいへいづか)などに同じく後補なる獅子、象木鼻(ぞうきばな)、手挟(たばさみ)などが付加されています。しかし、海老虹梁(えびこうりょう)、斗拱間(ときょうま)の蟇股(かえるまた)、持送(もちおくり)、絵様繰形(えようくりがた)のある木鼻、懸魚(げぎょ)、上長押(うえなげし)及び円柱は、建築当初のものです。勾欄(こうらん)、椽板(えんいた)以下は後補で柱は根継ぎして腰を高くし、椽束(えんづか)及び組物、腰下の宝珠形の大きな蟇股も近世の修復によるものと思われます。

彫刻棟札として墨書銘の木簡が8枚蔵されており、これらから、当本殿が桃山期の風潮を受けた和様を主とする建築として寛永18年に造営され、主体には大きな変化なく後世種々の彫刻を付加されたことなどがわかります。先に国の指定を受けた素木造り(しらきつくり)の中村神社(寛永20年建立)と比較してみると、当時の関東・東北に流行した神社建築の一様式がうかがわれ、きわめて貴重です。

建築ページに戻る